[ETC]社内報に書いた私の自己紹介

私が所属している会社では『べこんし』という名前の社内報があります。今月号に、社員紹介のコーナーで私の高校時代までのエピソードを書いて掲載してもらいました。その内容をこのブログでも転記しておきます。

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出羽 健一

両親が健康第一を願って「健一」と名付けたそうです。出身は大阪。兄弟は姉と妹。


保育園の頃から、ひょうきんな性格でよく「将来は、吉本に行くべきだ」みたいなことを言われていました。(当時は、吉本自体がなんのことか知りませんでしたが、、、。)


小学校の時に、ある日突然、父が高価なパソコンを買ってきたものの、ほとんど使われることがなかったので、僕のゲーム機として活用していました。今では違法ですが、当時は、パソコンソフトのレンタル屋さんがあって、そこからゲームソフトとコピーソフトをレンタルして、コピーしてから返却することを頻繁におこなっていました。交通費とレンタル料金を低く抑えるために、結構な距離でしたが自転車で1日2往復していたのが懐かしい。今思えば、これが僕の初めてのパソコンとの出会いです。


小学校時代は、ケンカも良くやりました。自分は空手を習っていたのですが、実践では、打撃の展開になることはほとんど無く、プロレス的な組み合いになることが多かった。当時は、プロレスが流行っていたので、ケンカとはそのようなものだというイメージを持っていました。 それだけに、男3兄弟でケンカ慣れしている打撃派の奴に、コテンパンに負けた時は、今までのやり方が通用しないだとか、根本的にルールが違うといった理由で、肉体的なものよりも精神的なダメージが大きかったのを覚えています。(プロレスラーの高田延彦が、ヒクソングレイシーに負けた時と同じようなショック)


中学時代には、転校という貴重な経験をしました。転向した翌日に百人一首大会があり、ルール違反スレスレ(違反?)の戦法をその場で思いついて、なんと学年で優勝してしまったのがありえない思い出です。


勉強はほとんどしなかったので、転校前は、成績はオール3とかだったのですが、転校後はとても柄の悪いことで有名な中学校で、周りがあまりにも勉強しない奴が多かったのか、 成績が4と5だけになりました。自分は何も変わっていないのに、評価がこれほど異なることに違和感を感じました。当時は、これを深く考察することは無かったのですが、長いものに巻かれることなく、物事を建設的に批評的して本質的に捉えることの重要性を肌で感じました。


高校時代は、水泳部に所属。球技が苦手だったという理由で水泳自体は高校から始めたのですが、3年生の頃には、大阪府の公立高校だけの大会で優勝するまでの成績を収めることができました。ここから自ら学んだ大切な教訓があります。それは「マイナーな分野でトップになる」ということです。


1年生の終わりの頃には、平泳ぎを専門的に練習していたのですが、なかなか芽がでませんでした。そんな中で、200Mバタフライの競技人口がとても少ないことに着目しました。同じトップになるにしても、競技人口が多い種目と少ない種目では必要な練習量がかなり違う。でも、トップはトップ。というわけで、200Mバタフライにターゲットを定めて、ひたすら練習に取り組みました。この戦略のおかげで、高い目標達成の実現可能性が見えてきて、非常に高いモチベーションで望めたことが大切な成功要因でした。


当時は文系だったのですが、ある理系の大学の水泳部から勧誘があって、理系に転向することになりました。今、思えば、この出来事がなければ、理系の会津大学に出会うこともなかったでしょう。


今回は高校時代までのエピソードを紹介させて頂きました。機会があれば、次回は、浪人時代からのエピソードを紹介をさせて頂きます。最後まで、読んで頂いてありがとうございました。